生から性の転換。
ふと引越しを思い立ったのは、世間がW杯で盛り上がっていた頃までさかのぼる。
駅から徒歩9分。
築32年木造アパートの1K。
とても陽当たりがよく、キッチン周りが充実していた点がとても気に入っていましたね。
なにより窓の向こうが墓地だったこともあり、何も遮られない景観はなかなかに好ましかった。
季節の折りに窓の外から香る線香臭さも嫌悪感を感じるどころか懐かしい気持ちになるから、返ってその部屋をより一層好きになった理由かもしれません。
近隣も穏やかな方が住んでおり、朝の出勤時には顔馴染みの祖父母に近い年齢の方が掃除の手を止めて皺をより一層深めて挨拶してくる日常は、心和ませてもらいました。
猫も近所でよくゴロゴロしていて可愛かったなぁ。
そんな中で唯一の不満となっていたのが下の階の騒音問題。
とにかく煩い。そんでもって神経がとてつもなく図太い。
一見、普通のどこにでもいそうな印象の女性。これがなかなかに奔放な性生活を送っており、確実に週2回のペースで性行為を行っているもんだから大変気が滅入っておりました。
木造住宅ってのは音が筒抜けなのは言わずもがな。奔放なセックス実況を聞いて羞恥するほどおぼこい年齢ではないけれど、そのタフな精力と体力には勘弁してくれよと顔を覆う日がたびたび。
平日の真夜中におっぱじめるもんだから、次の日も仕事だってのに寝不足になることが多くて参りました。
その日もW杯で世間が盛り上がる中、下の階の女性は別の意味で盛り上がっていましたね。
ニャンニャンボイスを誤魔化すためでしょうか、いつも以上にボリュームを上げたテレビの音声がとてもよく聞こえましたね。当然、テレビのチャンネルはサッカー中継だったことをお伝えしたい。
おそらく、彼氏の性癖と彼女の趣味なのかしら。行為の始まりはいつだって、やめてだのそんなつもりじゃないもんだの甘ったれた声色と抑止力を全く感じさせない第一声から始まるわけですよ。彼氏の宥めては最終的には強引に持っていく流れはもはやワンパターン過ぎて、よく毎回この流れで飽きないもんだなぁとしみじみ。たまには趣向を変えた方が楽しいと思うんだけど?とか思ったりしなくもない。
そんでもって日本がゴールを目指すのと時を同じく、ラストスパートを目指す安いベットのギシギシ音がリンクしていて、なんだか笑えたのは私もこの騒音生活にだいぶ神経がやられていたのかもしれない。
その時になって、あー引越ししようと決意したのだから、つくづく私ってば腰が重い。
2年以上、聞き飽きた女性の喘ぎ声をBGMに物件検索を始めたのはシュールな光景だったかもしれませんね。
それまで好ましく感じていた環境、住宅を取り巻くあらゆる物が色褪せて思えて、あれが文字通り冷めるって感情なのかしら。
とにかく私には時間がなくてですね、なんせ仕事が忙しいのなんの。
引っ越す気力があれば、その気力を仕事に回しちゃうような社畜なわけですよ。
そんな中で世間はW杯やらで盛り上がっているし、下は盛りのついた雌猫みたいに喧しいし、無気力に部屋で身体をひたすら休める日常が馬鹿馬鹿しく思えて、お前ら馬鹿にするのもいい加減にしろよという謎の怒りに近い衝動で引越しを決めたわけですよ。
干からびたカエルみたいに道路にへばりついている死に体の私によくもまあそんな気力が残っていたもんだと自画自賛してあげたい。
おかげさまで無事に引越しを終えて新居で過ごしているわけですが、今度の部屋はとにかく静かで久々に安眠を甘受しております。
住宅環境ってのは大事ですね。
なんかとっても元気です。
ところで変に律儀な兄が引越し祝いを持ってきてくれたのですが、新しく引越したマンションを見てクスクス笑ったのがとても印象深かった。
「墓場の裏のアパートから次はラブホテル前のマンションですか。生から性の転換ってか?誰うまよ」
なんてこった。
これは座布団1枚あげねば。